昭和52年11月07日 朝の御理解
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無情の風が時を嫌うぞ。」
昨日変わったお願いと言うでしょうか、笑い話の様で、大変また悲しいお話でしたけれど、お参りをしてくる方のお姉さんが、身体の具合が悪くて入院を致しました。ところがどの部屋へ行っても、どの部屋へ行ってもその人が、あまりにいびきが高いので断られる。とうとう病院から断られてしまったというのです。だから「どうぞいびきをかかないようにお願いします」という話でした。私はそれを聞かしてもらいよってから、何か知らん悲しゅうなりました。
本当にそのやはりいびきの高い人が、やっぱり同じ同室におるなら、やっぱり眠られんですね。物凄いいびきらしいんですよあれ、病院そのどの部屋行っても、そのいびきのために断られるから何処へ行くそこへ行く、結局は病院から、いびきのために断られたという。まあお願いとしては、変わったお願いですし、また面白いちゃ面白いお願いですけれど、私は結局ならんところでもなるように、治らん者でも治る程しのおかげが受けられると言う事だと思うんですね。
この御理解十六節は。もう運命だともう寿命だと、例えば言うような場合にも、その運命が新たな展開を見せたり、もうこれはない寿命だと言われても、あぁあれは四神様のお言葉でしたかね、「氏子の願いによっては三度までは命を助ける。無い命の者でも」と言われる程しの道なんですね金光教におけるお道は。それでその願いなんです。結局願いなんですけれども、その願いが、最近合楽で言われる「願いの信心」、もう本当に親神様だと本当にわかってお縋りをする願い。
なったらいよいよ私はその願いの真というか、それが、神様へ通うという風に思います。どうぞして話を聞いて、天地の神様が親神様だと言う事を判っただけではなくて、どうしても、やはり実感としての親神様を一つ頂きたい。ここへ焦点を一つこれから置かして貰らわなきゃならない。昨日研修の時に丁度青年会の方達が、合楽辞典が今度出来る。そのための研修をもう一段進めて、ただ辞典と言った様な物ではなくて、昨日の朝、御理解に頂いたように、辞典であって読んでおかげを頂き。
そしてその興味またその津々たるものが出来上がったらと言う事で、昨日の朝の御理解を元にして、ここの修行生の先生方と、それから青年会の方達と合同で研修を致しました。それで私は先生方の言うならば、昨日の御理解の捉え方というか、頂いておる物と、それから青年会の方達が頂いておる物とが、どのくらい差があるだろうかと思うて、まず先生方の話を聞いて、その次に青年会の方達の話し合いを聞かせて頂いて、発表を聞かして貰ったんですけども、もう大差がないのに、私が感心致しました。
と言うのはもうずいぶん前からですけれども、そのことに、昨日のいわゆることについてはもう二十数年前からの、あの御理解集を全部このひもといて、そしてその言わば合楽の者でなかなければ判らないようなものがあります。だから合楽辞典というよりも、合楽語録という語は、語る、録は、記録するの録でしょう。合楽語録とした方が、大体は本当じゃないだろうかと、私もやっぱり本当そうだなと、辞典と言った様な判らんところをこう引いてみると。
そこに答えが出てきとるというだけのものではなくて、その答えが何とも言えん味わいであり、もうそのままが御教えであり御理解であり。そこに言うならば、読んだ言わば字引を読むと言う事はないけども、字引でもこう繰り返し読んでみたい様なものにしたいという願いの下に、いろいろな角度から研修、研究しておりますから、昨日のことに限ってだけだと思いますけれども、あのその先生方が、とらえておるところと、大差のないような感じでした。
中で安東勇治くんが発表しておるのを聞いてから、また一段感心いたしました。やはり青年会の、若い方達の、またはそのここで修行しておる方達の場合であっても、そのただ信心に専念しておるというだけでありましてね。あの本当に稽古しておるんだけれども、実際問題に取り組んでの稽古というものがなされてないということ。もう言うならば、食うか食われるかと言う様な日々の厳しい問題の中にあって、信心を体得していっておる者と、ただ信心だけを勉強しておるのというたら、大変な違いのあるのに。
私昨日気が付きました。あの人がまだ、小学校の三年か四年生ぐらいだったと思います。覚えてる方があると思いますけれども、あの石垣の上の何とか何とか原公園ですかね、平原公園で何か信心実習を致しました時に、夏の事でしたから西瓜割りがありました。そん時に西瓜を真っ二つに、こう目えつぶっておってから叩くやつでね、真っ二つに割ったのは勇治くんだけでしたよ。そん時からこりゃあその段々大きなったら、これは修行がいよいよ激しかばい。
と言う様なその時分に話をした事を私は覚えておりますが、もうその始めは親達の信心についてくる。でしたけれども、もうこの頃は親達を連れてくるという感じの信心ですね。もう自分がその難儀・苦労の真っ只中に自分があるわけです。ですから、それをどうしても信心によって、日々おかげを頂いていかなければ出来ない、その状態下にあるわけです。だからそれも食うか食われるかと、そればってん安東さん、私はずうっとみんなの事をお願いする中にですね。
あのお願いする中にこの人の事だけはもうお礼だけ、というのが何軒かあるんです。例えば椛目の田中のとこなんかを、お願いにする時にはもうお願いする、するなんていうのか、もうお礼を言うよりほかないですもん。安東さんがそうです、もうお願いよりももう本当に、あれが日々のそればってんやって行けると言う事は、もう誰が考えても不思議な状態の、様な中にしかも一年二年じゃないですもん。
そういう難しい中に、自分がバトンタッチを仕事の上にさせてもらって、真になって願い真になって、そのことに実際に当っておるわけです。ですからもう、私が昨日勇治くんが発表しましたことを、聞きながらね、もう本当なその問題難儀な問題を、ただおかげを頂きたい頂きたいじゃなくてね、その問題を通して自分が信心を分かろうと一生懸命、もうしておる者には勝てんと思いました。
だから昨日のその研修と言う事よりも、安東勇治くんの発表を聞かして頂いてから、もう今日の発表の中ではこれは最高だと。もう実がある実感がある。そして神様をその一分刻みではあるけれども、いわゆるいよいよ頂いていっておる。というのはどう言う事かというと、確かにこの神様は親神様だなというその実感なんです。もう今日はつまらん今日は出来ん、今日はつまらん今日は出来んの毎日ですからねあそこの場合は
。それがつまっていっておると言う事、それが開けていっておるという、開けて大きくなっているじゃないです。ただ言うなら、もうそれこそ今日もおかげで立ち行きました。明日は真暗の事なんです。そういう中にね、あの若さで芯になってその願い、信心しおかげを頂いておるからですからね。もうその一言一句がね、もう私はこの調子で行くならば、もう間違いなく、天地の親神様との本当のぶつかり合いというか、私が申しました。「もうその生き方で行くならね。
こちらが親を求めて行くというよりも、神様の方が天下って下さる、神下って下さる」と私がもう言うたことでした。「その生き方で勇次くん行くならば、もう神様の方がですね、降りてきて下さるよ」ちゅうて、こっちが求めて行かんでも。という程に私が実感する程の、あの発表でした。ただまあ机上の口論というと、ちょっとなんですけども、なら一生懸命信心に専念しておるというてもですよ。ここの修行生の方達の場合なんか、食べることに事欠くことはない。
もう言うならば衣食住、人間の一番その幸せと言う事はまず、衣食住が足らわなければとこう言われておるわけです。その衣食住に全然感じません、ただ頂く御理解を色々のその検証したり、そしてまた日常の生活の中に、それをまあ捉えていこう、研修していこうという生き方でしょう。どうしたならば助かる自分自身が助かるか、又は人も助かるかといったような研修ですから、これはまあ尊い話ですけれども。
もう食うことに食べることに着ることにですね、もう日々がです、例えばあの家をもう大家さんから追い出される。もうそれっこそえげつない追い出し方を今しておるわけ、最近ずうっと。だから本当言うたら、こうやってこの家に、こうやって休ませて頂いておるけども、もう明日また大家さんが来て、えげつない「さあもう出てくれ、もう出てくれ」て言いよるとですからね。
もう食べもんだってそうなんですからね、まあよーくそればってんちょっと最近な、お米のお供えが続く。お醤油のお供え、味噌のお供えまであるそうです。だからもう勿論お野菜誰が持ってきたか分からん様にして表に置いて、勿論そりゃお母さんの信心の、お父さんの信心だと言やあもうそれまでですけれども、その芯になっておる、私は勇次くんの信心に、その懸かっておるように思うんです。
これはこげな難しいことを言うたが、お父さんどうすんの、お母さんどうすんのと、まだ言うて良い年頃ですよねいうならば、けれどももうお父さんは頼りにならん、お母さんには頼りにならん。もう自分自身が白真剣、その問題に取り組むにゃならん、取り組むにゃならんと言う事は、白真剣神様にお縋りしなければおれないことになっておる状態。もう言うならば、衣食住と言う言がです、今日食べられたと言う事は、今日この家を住ませて頂いておると言う言が有難い。
そういう意味で衣食住足りておる。そして信心の稽古をしておるてんなんか、やっぱり甘いなあという感じがするんです。この生き方で行くならば、私が今や合楽で言われる、もちろん縋らねばおられんので、まあ縋りぬいていっておりますけども、この生き方で行くならば、神様の方が、降りてきて下さると、言った様な感じなんです。そこで私は思うんですけれども、もういうならば毎日毎日が、無情の風が吹いてきよるわけです、あそこの場合は。それを毎日毎日その、無情の風を向こうに追い返すような、働きを受けながらの信心です。
私はこれはもう安東さん達御両親には、私はもう「あなたがたの信心なもう勇次くんにかけてある」と、私は何時も言うんですけどね、それをその受けて立たせて頂いておる、毎日。だから真剣に、言うならば無情の風とも思われるような、無情の風を受けてそれを、毎日毎日こう跳ね退かして行くくらいの、言うならば信心というか、もう言うなら真に迫るというかね、食べることに着ることに住まうことにです、かけて行っておる。もうだからこれ以外にはないというふうに思うんです。
そして今言うもう私共がです。何時の時にか、私共が神様を求めて求めて、成程親神様だなあというものがです。これは求めたからというて与えられる。分かるわきゃないけれども、そいう日々が無情の風の中にあって、それを反対に吹き返して行くような信心をさして頂いておるうちにです。何時の日にか神様の方が、手を握って下さる。そんな感じがするのですこの人の場合。
だからこの人だけの事ではない、お互いがです。成程もう本当にこの親神様なかりせばという、その体験をです、積んでいく以外にはない。そして言わば神様との本当の意味での交流が出来た時にです。親なればこそという信心が頂けた時に、言わば御徳を受ける事になるだろうというふうに思います。それこそ病院から断られる程しに高いいびきのために、その断られたと、だからこれはどうにもしようがないけれどもです。それを例えば願わせて頂く。お取次を願われる。
それを聞いた時に、私の心の状態が、もし少し狂うておったら、ちょっと面白いかな、と言うただけですましたかも知れません。また変わった人があるな、しかし病院も、病院の、それも病人ばあんた、鼾が高いけんと言うて断るとはなんて言うちょるから、こう笑いながら話すような感じ。ところが私の、それを頂く心の状態がです。それを聞いて悲しゅうなった。その悲しゅうなったというのが神様の御心だと私は思いました。そういう神様なんです神様は。いわゆる、ういう性質の神様なんです。
そしてなるほど親だなあと私は実感しました。他人が聞いたら笑い話のような話し何だけれども、親が聞いたら、もう本当に切ない思いがする。そういう親神様の切なる思いとです。今勇次くんの発表から、私が感じさせて頂いた信心とが、一つになった時に、いよいよ、もちろん無情の風に時を嫌わす程しの力というか、おかげを頂くことですけれども、初めて、言うなら縋る、親だからこそ縋らずには、親と分かれば分かる程、縋らずにはおられないという。
目の細かい信心が出来てくるのじゃないかと、言う風に思わせて頂きました。神様はもうそれこそ悲しいまでにです。私どもの上のことを思い見ておって下さる。けれどもそれにやはり縋っていく者の言うならば一分一厘づつでもそれに近づいて行く。もう日々が神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。その立ち行かない日々をです。真剣に縋って、一歩一歩神様へ近づいて行く信心。
そこにはもう神様がもう見ておられんという、言うならば働きが起こって、神様の方から、言うなら、私どもに相接して下さる時期が来るだろう、この生き方で行けば。というふうにまあ思わせて頂きました。昨日のそういう真剣な研修の事ですけれども、「僕は今朝の御理解頂きよったけれども、何も残っとらん」という青年の人もありましたんです。ですからもう、まあ皆苦労しとらんかと言うて、苦労しとるですよ、やっぱその人も、いろんな人間関係とかいろんな苦労してますけども。
結局その位の程度にしか神様に縋っていないと言う事が分かりました。ですから縋っておるというても、もう本当に食うか食われるか、もう今日家を追い出されるか、今日食べる物が有るかないかと言った様なですね、そう言う所を辿らせてまあ頂かなければならんと言う事ではないですけれどもです。お互いの問題の一つ一つをもう少し真剣にね、考えその問題をもう少し、真剣に神様との?がり、関係をそういう問題の中から、身近な神様にしていく手立てを願わなければならないというふうに昨日思いました。
昨日丁度私が退った後にこの、西郷の千代田さんのところの、ここにお参りしてみえる、千代田さんの長男です。辰男さんと言って、私子供の時から知っておりますですが、この頃お父さんが亡くなりましたから、それでももうやっぱりもう四十四、五か五十ぐらいになりゃしませんでしょうか、ずっと庭造りに北九州の方へ行ってるんです。それがはっきり分からんけど、千代田辰男と御届けがしてあるから。「誰がこれお取次したか」と言うたら、「誰だれ」て言うから聞いてみましたところが。
、その辰男さんという人の娘がお願いにきてる、そしてお父さんが、その中風で倒れたのか、交通事故で倒れたのか分からんけども、今病院に担ぎ込んだから、という電話があったから今からすぐ病院に行きますからという、その御届けがありましたんですよ。先日ほんな一ヵ月前ですかねえ、お父さんが亡くなりましたのは、そしてからほんな一本柱ですが、長男の二人おりますけど、妹とはちょっとまあ頼りにならないような感じですから、が支えておるわけのその、一本足に縋って皆が縋っておるわけですけども。
その人が中風か交通事故か分からんけども、病院にその担ぎ込んだと言った様なね。本当にあの、無情の風というのはこう言う事じゃろかと思うんですよね。先月お父さんが亡くなったのに、また次の次にはその中心になる息子がね、倒れたと、まあどういう倒れ方かは知らんけれども、早速まあお取次あのお願いさせて頂きましたけれども。そういう例えば私どもは、もう本当に何時もそういう中にあることなんですよ。
いつどう言う事が起ってくるか分からない。だからそういう起ってくるか分からない、そう言う事をです。その場で向こうに押し返されるだけの力を頂いていく。そん時にお縋り、「ほんに頼む時だけお願いしてすいません」と言う願いじゃなくて、親だから子だから縋らずにはおられん。というその信心で縋って行けれる、言うならば信心を、いよいよ身に付けておかなければいけん、と言う事になりますですね。もう人の事とは思われません、自分の事として。
例えば思うたら、そういう時に自分がどういう、言うならば親だから縋れる。ただ困った時の神頼み的な事で縋ると言った様なものではなくて、親だから親神様だから縋らずにはおれんという、縋り方の出来れる信心をです。いよいよ合楽の信心が、「願いの信心」に、まあいうならば、立って信心をお互い、まあ稽古させて頂いておりますから、その本当の願いの信心が、本当な意味で、出来れる信心を身に付けるところに焦点を置いて稽古していかなければいけんと思うですね。
どうぞ。